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<<   作成日時 : 2007/04/08 20:16   >>

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数日前、一度アップしようとしてながながと書いて、公開ボタンを押したらメンテナンスに引っかかって消えてしまい、もういちど思いだすのに非常に時間がかかった読書録。
ふて寝した。

テーマは「かたられる生」(たぶん)。
最初の記録はもう戻ってこない。記憶を便りに復元、しかし不完全。

誰のためにでもなく、自分のために。
それを(今さら)学ばなくてはならない。

アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』☆☆
ハンバートは語り手兼誘惑者の役を演じる―ロリータだけではなくわれわれ読者をも誘惑するのだ。この作品の中で、彼は終始読者に「陪審員のみなさん」(時には「高潔なる男性陪審員の諸君」)と呼びかけている。話が展開するにつれ、より重大な犯罪、クィルティ殺し以上に深刻な犯罪が明らかになる。すなわち、ロリータを罠にかけ、レイプしたことだ(彼女が登場する場面は情熱と愛情をこめて書かれているのに対し、クィルティを殺す場面は笑劇として描かれているのに気づかれるだろう)。ハンバートの散文は、時として恥知らずなほど凝りすぎた文体になるが、これは読者を、とりわけ高尚な読者を誘惑するのが狙いである。彼らはそうしたペダンティックな知的芸当にだまされやすい。ロリータはみずからを守る術もなく、自分の言い分をはっきり述べる機会すらあたえられることのない、そういう類の被害者である。つまり彼女は二重の被害者なのだ。人生を奪われただけではなく、自分の人生について語る権利をも奪われている。私たちがこのクラスにいるのは、この第二の犯罪の犠牲者にならないためだ。私たちは自分にそう言い聞かせた。
同書64頁「ロリータ」より
自分の人生を享受し、語る権利。
語る人がいなければ残されない、けれど「存した」、そういう生があることを。
言葉を得た途端に、わたしもあなたもあのひとも、violationをやってのけたりして。
やられれば痛いことを知っているから、だから、やりたくない、そのはずなのだけど。
誰かのためではなく、自分のための人生を生きて、という遠慮がちだがきっぱりとした言葉を友達から誕生日にもらったことがある。
私が誰かのために自分の人生を諦めている、私の人生を無神経にも浪費する人のそばにいて平気なふうでいる、無力さに慣らされていると心配しての言葉だった。
平気なふりも、あなたはやってしまうのだ、と痛い指摘。
私の友達。


藤原章生『ガルシア=マルケスに葬られた女』☆☆
でも、ブラスがそれを伝えると、あなたはこう断った。
「私にだって私の考えがあるのよ。信念だってあるの。わかるでしょ。自分の人生、自分が感じてきたこと、自分の愛……。それについては、私だって自分なりの考えがあるの。もちろん人のプライバシーについてもね。それを考えてみると、やっぱり私は、自分だけのもの、自分だけにしかない感情、それを売り物にしたくないの。
 人生は自分ひとりでは決められない、確かにそうだと思う。でも、それをどういうふうにしたいか、それをどう振り返るのか、それも人生だというなら、それだけは自分のものでしょ。商品ではないと思う。私、やっぱり、自分の人生だけは売り物にしたくないの」
同書232-233頁 12章「ブラス、ルイサ」より
つくづく、「引用」「援用」って卑怯者のやることになるのだなあ、と思う。
同じ著者の『絵はがきにされた少年』面白かった。と思えるのは、著者が、「記者」としてのviolationと、「読者」としてのviolationと、「当事者」としてのviolationのどれをも自覚しまたは読み取って、どの立場にも心から一体化できないというためらいと、どの立場もとってみたいという欲望を抱いていることの居心地の悪さを、的確に書いているからだ。
communicate。横文字借用多しの書き方でないと、今の気分にはあてはまらない。

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』
ただ、私ほどの想像力を持った人間が、普遍的な感情に対して個人的に無知だったと言い訳することができないのは、まったく認めざるをえない。そしてまた、シャーロットと娘との異常なほど冷めた関係を、あまりにも当てにしすぎていたような気もする。しかし、この議論で恐ろしい点はここだ。私たちの奇怪で獣じみた同棲期間中に、我が平々凡々たるロリータにも次第に明らかになってきたのは、たとえ最も惨めな家庭生活ですら、近親相姦のパロディよりはましであり、実はそれこそ、長い目で見れば、私がこのみなしごに対して提供できる最良のものだったのである。
同書512頁 32章より
この男は(怒)。何を偉そうに、懺悔めいて。
『テヘランでロリータを読む』を読んだから、という誠にミーハーな読み方。「ウザい」「キモい」を連発する新訳ロリータは、白ソックスのまぶしい女学生(古)だったんだ、と新鮮に発見。解説の大江健三郎の「自分とロリータは生年一緒」にひっくり返る。「ゴシック・ロリータ」が「ゴシック」を冠さなければならないわけがようやく分かった。パニエやベロアやレースふりふりのブルマー(似非欧羅巴風)は出てきていなかった…。
スカート短めではないとキレよく見えないデザインの制服、偏差値を10上げる(古)というリセエンヌファッション、結局誰のためのデザインだったのでしょうね。みんながハッピー。
翻訳、実に素晴らしい。大久保康雄訳も読んで見ようかと思った。
翻訳者の「ニンフェット」概念が、言葉を通して浮かびあがっている。ほほー、この辺に「やましさ」や「あぶなさ」を感じる(もしくはある種の嗜好を持った人びとの感覚を刺激する)と計算している(ことにしておこう)わけか。
大江健三郎と同じ年(しつこい)の少女が、街を元気に歩いて(そしてあっという間に「彼女」はいなくなってしまう)今の女の子たちとぴったりと重なり合う見事な訳。…ということは、最初の翻訳者もやっぱり、「ニンフェットとは」「私のニンフェットの話す言葉はこれだろう」と考えたりしたのだろうか。私はもはや戦後40年くらいまでの翻訳文学の中にしかいなかった女性の学生言葉にたぶん発情している。
月並みな発想だけど、教授萌えしている「女性」や、脱走に燃えるロリータと同じ心性をもった「女性」による翻訳も読んでみたい。

フィリップ・クローデル『リンさんの小さな子』
バルクさんはそこで口を閉ざす。黙って煙草を吸う。リンさんは、また声が出てくるのを待っている。さっきから自分の隣に座っているこの男の話す言葉の意味は分からないけれど、その声を聞くのが好きだということに気づいた。その深い声、低く力強い声。おそらくこの声を聞くのが好きなのは、そもそも発せられる言葉の意味が分からないからだろう、だから傷つけられる心配がなく、聞きたくないことを言われることも、つらい質問をされることも、無理やり過去から引きずり出され、血まみれの遺体のように放り出されるという心配もないからだろう。彼は膝の上の幼子を抱きしめながら、隣の男を見つめる。
同書23頁
結末まで読んで、当然驚いて、もういっかい読み返した。
二度目の読みでは、メインキャラクターの男性二人と赤子よりも、周囲の人びとの態度と言葉に泣けた。申し分なく健康、それにかわいい赤ちゃん。

トニ・モリスン『青い眼がほしい』
わたしたちが心を痛めたのは、まだ生まれてこない赤ん坊にたいする、この圧倒的な憎しみだけだった。わたしたちは、ミセス・ブリードラヴがピコーラをはり倒して、うちの冷蔵庫のドアに似た音を立てて泣く、恐れですくんだ人形のような、ピンク色の少女を慰めていたのを思いだしたし、メレンゲ・パイに見つめられて屈服した学童たちの眼と、同じ子供たちがピコーラを眺めるときの眼をおぼえていた。あるいは、おぼえていたのではなくて、知っていただけかもしれない。わたしたちは物心ついて以来、あらゆるもの、あらゆる人人にたいして自分の身を守り、すべての言葉は打ち破らねばならない符号で、すべての身振りは注意深く分析しなくてはならないものだと考えてきた。その結果、強情で、ひねくれて、傲慢になっていた。注意を払ってくれる人はいなかったので、私たちは自分に綿密な注意を払った。その頃はまだ、自分たちの限界がわかっていなかった。唯一のハンディキャップは、からだが小さいことだと考えていた。人々がわたしたちに命令するのは、彼らが大きくて強いからだと考えた。そういうわけで、わたしたちは、憐みと誇りで強められた自信をもって、ことの成りゆきを変化させ、人間の生活を変えようと決心した。
同書278-279頁 「夏」より
この物語を読んで考えたこと。
だってこれが差別というものでしょう、と名指す困難。定義を与えたとたんにこぼれ落ちる様々の砂粒。
美しさは差別をしない。厳然としてあるものを、客観的に判定すればいい。
憐れで、貧しくて、卑屈で、ものを知らなくて、醜く、誰もが眼をそらすそれを、どうして「美しい」「かけがえのない」とごまかすことが出来る?
だれの基準で「ごまかしている」?
みじめな「父」の生活が救われても、「母」が秩序ある台所の主になっても、救われない子どもの、女の子の生。
友達二人は、その子を助けるために、花の種を植えてまじないをかけるが。


ブルックス・ブラウン『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』
世界には、本来、論理的なルールがある。だけど今日のキッズは、逆のことが真実だと教えられてきた。人生とは残酷なものであり、仲間というのは意地の悪いいじめっ子たちであり、正しいことと間違っていることに関する根本的な疑問は、「おれがそう言ったから」という理由以外に何も根拠のないルールによって答えられる、という世界で育てられてきた。
 結果として彼らは、他に信じられることを探すことになる。
 ディランは、世界の不公平さをぼくと同じくはっきりと見ていた。鋭いやつだった。あいつは自分をいじめるやつらにイラ立っていたし、他の子たちを同じように、自分の暗い将来が見えていた。
 エリック・ハリスもほとんど同じように感じていたはずだ。
同書26頁 第2章「なぜ?」より
 今になっても、エリックとディランが傷つけたり殺したりした人々の家族のそばにいると、ぼくはまだ落ち着かない。どんなに彼らが親切でも、ぼくは心の奥のどこかで、彼らが「私はあの2人のむかつくろくでなしに自分の子供を殺されて、そしてこいつはあいつらの友達だ」と思いながらぼくを見ているのを感じてしまう。
同書206頁 第16章「家族たち」より
ぼくも絶対に終結を見ることができないでしょう。これは永遠にぼくの将来に書き記されるんです。死んでしまった生徒がいます。彼らは撃たれました。生き残った他の生徒たちは、彼らの体の上を走ったり、横たわったりしながら友達が死ぬのを見なければなりませんでした。これは終わらせられるような何かではないんです。できるのは単に対処する方法を覚えるというだけなんです。
同書246頁 第20章「最後の望み」より
痛い痛い。
同級生や先生を撃ち殺し、自分たちも自殺した(ケリを自分自身でつけた)友達二人と、撃ち殺された学校の仲間たちの間に立っている少年の著作。
引用しなかったけれども、ゲームの中にはきちんとした法則があること、それが彼らをその世界へあたらせたことについての著者の少年の共感と擁護、私も思い当たることがある。
「ゲームが友達だった」時代があるからだ。知恵と友情と勇気が、道を切り開くことに信頼をおいて、ストーリーを進めればいい。衝動を発散させても、お前は罪を問われない。
デキノ悪イ法則デ世界ヲ支配スル者ヲソレデモ信ジル少女ヲ彼ラハ嘲弄シ、撃チ殺シタ。
撃ち殺すジェンダー、撃ち殺されるジェンダー。撃ち殺すところへ追い込まれる、子ども?
「ダ・ヴィンチ」の宮台真司の連載の中で「圧力釜状況」という言葉を読んだとき、この本を読んだことを思いだした。
大澤真幸の解説、ネットのレビューでは見解は分かれるけれど、私はこの人の傑作だと思う。宙吊りになることが「赦し」をもとめること。
264頁に誤訳発見。銃撃犯の少年がホームページに書いていた【Wie gehts.】は、【「おれたちは行く」の意】ではなく、【How are you?】の意味。
「英雄的な」別れと出発から、何てことない、あざけるような呼びかけへ。
いえ、ほんとのほんとにちょっときどってみせたごあいさつ。vado mori.


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