|
読書録。 例によっててんでばらんばらんのラインナップ。 取り巻く世界がもう壊れてしまっていて、まるで瓦礫拾いをしているかのように。 歴史の中で繰り返されてきたこと、誰もがそのようにやっていること。 小岸昭『十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年』★ アドルノはもちろんその独訳完成前に亡くなったが、自分と同じ半ユダヤ人のプルーストによって書かれた『失われた時を求めて』の世界が、じつは身体的・宗教的な生き残りに賭けたマラーノの記号に満ちあふれていることを、他の誰よりもよく知っていたのだろう。アドルノは、専門分野だけに閉じこもることのない哲学者・社会学者・美学者として、シオニズム運動が推進した原理よりも、「器の破壊」理論に象徴されるような普遍的な贖罪の原理を特徴とするマラーノ性によって、この作品が形成されていることに価値を認めていたにちがいなかった。この本を読みなさい、と勧められたのは何年前のことだったか。 マラーノ(スペイン語で「豚」の意。カトリックに改宗させられた「新・キリスト教徒」、内実はユダヤ教を守り続けてきた人々。しかし迫害を逃れた後も今度は、それとは意識せぬ間に異文化との接触によって変質していた自らの宗教性と、ユダヤ教正統派のそれとの軋轢を味わう)の痕跡をたどる著者の旅路が、美しい、だけれども過度の叙情性を押さえた文章で語られている。 言葉によって神/真理に近づくことを目指した、ある宗教のよう。 それは形而上的な言葉を使うことではなく、歴史の中のある人々の事跡をたどることで恐らく達成される。 「形而下的」なことではなくて、そこから……。 「アドナイ、アドナイ」の呼びかけが「ドナドナ」のリフレインに変わって行くまでの旅路は、この旅を筆者とともにした(と書いてある)細見和之『アドルノ―非同一性の哲学』 アドルノが万一生きていて、Amazonのアフィリエイトに自分の本が入っているのを見てしまったら、憤死されてしまうのではなかろうか。 苦難すらもが「売り物」と見なされうる今の世界で、それでも「苦難」と「回復」を求めるための困難な旅路。 いかなる傲慢さもなく、理不尽な暴力に対して暴力で答えるわけでもなく、ひたすら隠れユダヤ教徒の破局の歴史に目を向けながら、それにふさわしい歴史概念を作り上げることが、マラーノ近代史への旅をしてゆく者にとっては重要なのである。そして、マラーノの歴史の終末にまだ残存している人々の信仰の力を、自分たちの「夢見ること」のなかへ導きこもうとする試みこそ、歴史家フリッツ・ハイマンに、生き続ける思想の重みを与えているのだ。 土井香苗『" ようこそ"と言える日本へ 弁護士として外国人とともに歩む』★ 私はときどき夢を見ます。読書予定リストにあった本、友達から借りて読了。 歴史的事件の中であったことに対し「理不尽さ」をおぼえても現在の問題には石を投げる人々の中で、毅然としてたたかう人の言葉。 この人は望遠鏡も拡大鏡も持っている。 沢木耕太郎『人の砂漠』 八月六日、ほとんど豊作が決定的と見た売り物が市場に殺到した。八日間、連続のストップ安を続け下げに下げた。どこかで彼らのこの言葉と似たものを、聞くことになるんだろうか。 そういう時代とは大分違っているんですよという人は多いけれど、本質までもが変質しているのか、私にはいまだによく分からない。 「不敬列伝」ー天皇と日本人。 「棄てられた女たちのユートピア」ー″婦人更生″から″婦人保護″、″女性尊重″へのつながらない足取り。早すぎた楽園の村。 「視えない共和国」ー国境としての沖縄県の周縁。 今筆者が伝えようとしていることは何だろうか。 数年前、私が読んだのはスポーツ誌のルポが最後だったような気がする。 いつのまにか報道されなくなってきたこと……手付かずで済まされるようになってきたもの…… テッサ・モーリス-鈴木『過去は死なない―メディア・記憶・歴史』★★ 揺るがされる自己確信と自己イメージ、その不安に入りこんでくる「虐げられた国の民であることについての自己防衛的で伝統的な叙述と、危機にさらされた男性アイデンティティについての自己防衛的で家長的な叙述」をめぐる論考、第五章「視角」があざやか。 私は傷ついていないと言い、傷ひとつないからだを求める人はたぶん傷ついている。 そして他者を傷つけずにはいられない。 姜尚中との対談新書で「血管」マークをつけられて図像化されていたことは、この人の見取り図の中ではどんな風になっているんだろう? あっ、カワイイ、と思ってしまった私。イメージ操作に乗っかるうかつな読み手。あの人やあの人にそのマークがついても絶対「カワイイ」なんて思わないだろうけれど。 わたしたちは過去の出来事に連累(インプリケーション)している。過去によって創られた制度、信念、組織のなかに生きているからである。しかし同時に、過去がわたしたちのなかに生きているからでもある。意識して、あるいは無意識のうちに、たくさんのメディアから吸収してきた歴史知識によって、誰に共感するか、現在どの出来事に喜び、同情し、怒るのか、そうした出来事にどう対応するかが決定される。どうしたらいいか。何が出来るか。対話を続けていくために最低限やらなくてはならないことは何だろう。 常に来し方を振り返ること。自分のものも相手のものも、知ること、忘れないこと、見破ること。 魔法の薬も王道もない。 吉見俊哉『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』 しかし二〇年代末までは、国家がラジオを通じて国民を直接操作していこうという意図は希薄であった。かつて、高木教典らも述べたように、二〇年代のラジオは、「なるべく『政治』の分野にはかかわらない、コミットしない、というのが一つの基本方針」であった。ところが、「こうした消極性は、情況の転換と相まって満州事変のインパクトから崩れ始める」。三〇年代以降、いわば「ラジオの時局化」が進むのであって、ラジオはファシズム体制に向けてより能動的に大衆意識を動員していくメディアとなっていくのだ。冒頭、状況から切り離され、無数の「騒音」、沈黙を駆逐する「音声」として顕れるラジオの音についての記述。 空白を許さない言葉と、言語によって編み上げられる、世界を覆う網のことを連想する。 じゃあスイッチを切ればいいじゃない―それだけで終わる問題ではない。 荷風がいらだつ、街のどこからも聞こえてくるラジオの音のように、偏在する/かのようなそれ。 地理的な世界征服、網の成立―耳をふさいで「私には聞こえていない」と言い張ってもたぶん無意味。 逃れたい? 自由になりたい?
|
| << 前記事(2006/01/22) | トップへ | 後記事(2006/01/24)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2006/01/22) | トップへ | 後記事(2006/01/24)>> |