An Amnesiac's Adversaria

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS 彷徨(前)

<<   作成日時 : 2006/01/23 18:05   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

読書録。
例によっててんでばらんばらんのラインナップ。
取り巻く世界がもう壊れてしまっていて、まるで瓦礫拾いをしているかのように。

歴史の中で繰り返されてきたこと、誰もがそのようにやっていること。

小岸昭『十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年』
アドルノはもちろんその独訳完成前に亡くなったが、自分と同じ半ユダヤ人のプルーストによって書かれた『失われた時を求めて』の世界が、じつは身体的・宗教的な生き残りに賭けたマラーノの記号に満ちあふれていることを、他の誰よりもよく知っていたのだろう。アドルノは、専門分野だけに閉じこもることのない哲学者・社会学者・美学者として、シオニズム運動が推進した原理よりも、「器の破壊」理論に象徴されるような普遍的な贖罪の原理を特徴とするマラーノ性によって、この作品が形成されていることに価値を認めていたにちがいなかった。
同書「1 『十字架の世界史』の陰に 第一章 マラーノ論の展開」38頁
個人であれ、集団であれ、宗教的枠組みから離れてはその存在を認められない時代に、プラドのこうした闘争は前代未聞だった。彼は破門に疑義を呈し、その撤回を求める。それは、ユダヤ教の教義を拒み、その戒律を嘲笑するような人物にも、なお共同体の成員であり得るという権利を保証せよという要求のようにも聞こえる。
……
理神論に基づく自らの異端的な見解を守るとともに、引き続きユダヤ人共同体への帰属を求めるというプラドのこのような「非宗教的・世俗的ユダヤ主義」は、ヨベルも言うように、理論的可能性としてもあるいは社会的・実存的可能性としても、当時まだ存在していなかったのである。したがって、同時代の人々につきつけたプラドの要求は、彼らの目には一つの表現矛盾、あるいは荒唐無稽な言説としか映らなかった。
同書「2 寛容都市アムステルダム 第六章 アムステルダムの破壊的性格」187-189頁
この本を読みなさい、と勧められたのは何年前のことだったか。
マラーノ(スペイン語で「豚」の意。カトリックに改宗させられた「新・キリスト教徒」、内実はユダヤ教を守り続けてきた人々。しかし迫害を逃れた後も今度は、それとは意識せぬ間に異文化との接触によって変質していた自らの宗教性と、ユダヤ教正統派のそれとの軋轢を味わう)の痕跡をたどる著者の旅路が、美しい、だけれども過度の叙情性を押さえた文章で語られている。
言葉によって神/真理に近づくことを目指した、ある宗教のよう。
それは形而上的な言葉を使うことではなく、歴史の中のある人々の事跡をたどることで恐らく達成される。
「形而下的」なことではなくて、そこから……。
「アドナイ、アドナイ」の呼びかけが「ドナドナ」のリフレインに変わって行くまでの旅路は、この旅を筆者とともにした(と書いてある)細見和之『アドルノ―非同一性の哲学』の中で。
アドルノが万一生きていて、Amazonのアフィリエイトに自分の本が入っているのを見てしまったら、憤死されてしまうのではなかろうか。
苦難すらもが「売り物」と見なされうる今の世界で、それでも「苦難」と「回復」を求めるための困難な旅路。
いかなる傲慢さもなく、理不尽な暴力に対して暴力で答えるわけでもなく、ひたすら隠れユダヤ教徒の破局の歴史に目を向けながら、それにふさわしい歴史概念を作り上げることが、マラーノ近代史への旅をしてゆく者にとっては重要なのである。そして、マラーノの歴史の終末にまだ残存している人々の信仰の力を、自分たちの「夢見ること」のなかへ導きこもうとする試みこそ、歴史家フリッツ・ハイマンに、生き続ける思想の重みを与えているのだ。
 この講演の後、フリッツ・ハイマンはアムステルダム・ユダヤ人地区の封鎖を指揮した上級親衛隊(SS)警察監督官ラウターの追っ手に捕らえられた。その後オランダの集合収容所のひとつに収容されていた彼は、ある日到着したユダヤ人輸送列車に乗せられ、アウシュビッツへ送られた。
同書「1 『十字架の世界史』の陰に 第一章 マラーノ論の展開」51頁


土井香苗『" ようこそ"と言える日本へ 弁護士として外国人とともに歩む』
私はときどき夢を見ます。
私がもう少し年をとって「多民族・多文化共生社会」の日本に暮らしている夢です。そこでは強制収容や強制送還を怖がることはありません。遠くに行ってしまった人たちも戻ってきていて、人間としてあたりまえの「普通の暮らし」を楽しんでいます。
同書185頁「差別と戦争を越えて」
読書予定リストにあった本、友達から借りて読了。
歴史的事件の中であったことに対し「理不尽さ」をおぼえても現在の問題には石を投げる人々の中で、毅然としてたたかう人の言葉。
この人は望遠鏡も拡大鏡も持っている。

沢木耕太郎『人の砂漠』
八月六日、ほとんど豊作が決定的と見た売り物が市場に殺到した。八日間、連続のストップ安を続け下げに下げた。
《売るに売れないんです。買い手がつかない。もう止まるだろう、もう止まるだろう、そう思っているうちに儲けはすべて消えたんです》
《儲けどころのはなしじゃない、足を出してしまった》
《ションベンがコーヒー色になりましてな》
 彼らに好意的に玉を張らせていた乙部商店の社長によれば、彼らは場に立っていて我が児が殺されるのを見させられている親のようなものだったはずだ、という。
 彼らは何といっても場立ちである。彼の属している店の指令通りに手を振らなくてはならない。店にも売り物が殺到している。売りの手を振る。そのたびにどんどん値が下がっていく。それは、彼らが苦労して育てた上げ相場、買い玉の首をしめることになる。自分で児を殺しているともいえる。手を振るたびに眼をおおいたかったろう、と乙部はいうのだ。
《でも一年近くは楽しい思いをしたんだから、いいじゃないですか》
《いや、そうじゃないんです。ガラの来た八日間の長かったことに比べれば、そんなもんアッちゅう間でした》
《そんなに?》
《死のうかと思いました》
冗談をいっているわけではなかった。
《この世界から足を洗おうかとも思ったけど、洗って何ができるわけじゃなし。学歴もなにもないわたしらができるのは土方くらい、この世界にしがみついているよりしゃあない》
《借金をこさえてもうて、この借金、相場以外でどうやって返せますねん。それに好きですしな、やはり》
以前どこかで彼らのこの言葉と似たものを、きいたことがあった。誰からだったろう……。
同書283頁「鼠たちの祭り」
どこかで彼らのこの言葉と似たものを、聞くことになるんだろうか。
そういう時代とは大分違っているんですよという人は多いけれど、本質までもが変質しているのか、私にはいまだによく分からない。
「不敬列伝」ー天皇と日本人。
「棄てられた女たちのユートピア」ー″婦人更生″から″婦人保護″、″女性尊重″へのつながらない足取り。早すぎた楽園の村。
「視えない共和国」ー国境としての沖縄県の周縁。
今筆者が伝えようとしていることは何だろうか。
数年前、私が読んだのはスポーツ誌のルポが最後だったような気がする。
いつのまにか報道されなくなってきたこと……手付かずで済まされるようになってきたもの……

テッサ・モーリス-鈴木『過去は死なない―メディア・記憶・歴史』★★
揺るがされる自己確信と自己イメージ、その不安に入りこんでくる「虐げられた国の民であることについての自己防衛的で伝統的な叙述と、危機にさらされた男性アイデンティティについての自己防衛的で家長的な叙述」をめぐる論考、第五章「視角」があざやか。
私は傷ついていないと言い、傷ひとつないからだを求める人はたぶん傷ついている。
そして他者を傷つけずにはいられない。
姜尚中との対談新書で「血管」マークをつけられて図像化されていたことは、この人の見取り図の中ではどんな風になっているんだろう?
あっ、カワイイ、と思ってしまった私。イメージ操作に乗っかるうかつな読み手。あの人やあの人にそのマークがついても絶対「カワイイ」なんて思わないだろうけれど。

わたしたちは過去の出来事に連累(インプリケーション)している。過去によって創られた制度、信念、組織のなかに生きているからである。しかし同時に、過去がわたしたちのなかに生きているからでもある。意識して、あるいは無意識のうちに、たくさんのメディアから吸収してきた歴史知識によって、誰に共感するか、現在どの出来事に喜び、同情し、怒るのか、そうした出来事にどう対応するかが決定される。
同書第7章「″歴史の真摯さ″の政治経済学に向かって」285頁
どうしたらいいか。何が出来るか。対話を続けていくために最低限やらなくてはならないことは何だろう。

常に来し方を振り返ること。自分のものも相手のものも、知ること、忘れないこと、見破ること。
魔法の薬も王道もない。

吉見俊哉『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』
しかし二〇年代末までは、国家がラジオを通じて国民を直接操作していこうという意図は希薄であった。かつて、高木教典らも述べたように、二〇年代のラジオは、「なるべく『政治』の分野にはかかわらない、コミットしない、というのが一つの基本方針」であった。ところが、「こうした消極性は、情況の転換と相まって満州事変のインパクトから崩れ始める」。三〇年代以降、いわば「ラジオの時局化」が進むのであって、ラジオはファシズム体制に向けてより能動的に大衆意識を動員していくメディアとなっていくのだ。
……
今ではもはや、「放送局が全然官吏に乗っとられて」しまい、その放送内容も著しく「官吏的イデオロギー」に彩られている。このままだと「ラヂオが反動化し、そのために大衆が反動化し、その影響によってラヂオが反動化する」という悪循環の回路を突き進んでいくことになろう。清沢はこのように、ファシズムのメディアとしてラジオがたどりつつある状況とその危険性を強調していくのだ。
同書第六章「大正のラジオマニアたち 3 集団統制機構としてのラジオ」215頁
冒頭、状況から切り離され、無数の「騒音」、沈黙を駆逐する「音声」として顕れるラジオの音についての記述。
空白を許さない言葉と、言語によって編み上げられる、世界を覆う網のことを連想する。
じゃあスイッチを切ればいいじゃない―それだけで終わる問題ではない。
荷風がいらだつ、街のどこからも聞こえてくるラジオの音のように、偏在する/かのようなそれ。
地理的な世界征服、網の成立―耳をふさいで「私には聞こえていない」と言い張ってもたぶん無意味。

逃れたい? 自由になりたい?
十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年 (NHKブックス)

設定テーマ

関連テーマ 一覧

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文